壁沿いに歩くと見えるもの

石壁沿い散歩。

超えられない壁はない、との美句がふわりと私を包む。

しかし今、人生・世の中を見渡せば、超えられない壁ばかりだ。

“超えられない壁にぶち当たったら、なにも困るこたあないさ、ただ沿って歩くだけだよ”

と、マーベリックは私にいう。

“あなたなら、超えられない壁なら、壊して進んでみせよう、とでもいうのかと思った”

と、私がマーベリックに言うと、マーベリックは、

“動物っていうのは、そういうところ案外平和なのさ”

とこたえた。

その時、ちょうど、トカゲに出会った。トカゲもすかさず、

“壁に寄り添い、その輪郭を、確かめるのさ”

と、私にささやく。

昔「カモメのジョナサン」という物語が好きだった。

食べ物を漁るという、毎日の生活に関係のないところで、自分の限界に挑戦しようとする一羽のカモメ。そのカモメの心根が、とんでもなく稀有で純粋なものに思え、そんな生き方に憧れもした。

でも…

実際は、次から次と、波のように訪れる壁を超えたり壊したりするのは美学のように甘く、気持ちを持っていかれるのだけれど、そのあとはいつも虚しい。壁を超えることを代償に、必ず失うものがあるからだ。それは、自分の何かだったり、時に他者の何かだったりする。そして手にしたものを見て、自問するのだ。自分が本当に欲しかったのは、これだったのか、と。

ベルリンの壁が壊れたとき、人類は美酒に酔いしれた。そのこと自体は大切な足跡だったけれど、しかし、そのあと、世の中がよく変わっただろうか。

この壁の崩壊もまた、世界の塗り絵の、色の陣取り合戦の1つでしかなかったのだろうか。

壊すという劇的な行為が、人の心を魅了して離さないのなら、人はいつまでたっても、自ら壁を作ろうとし続けるのだろうか。そして、壊すという行為に、行為の意味を見出して、それを無限に拡大していくのだろうか。

それは美しい物語を生むのかもしれないが、そうして世の中は、いつのまにか自分たちのものでないどこか別の方向へ、向かい出してしまっている。

跳ばなくてもよいハードルを設定し、それを跳ぶことに夢中になってきたのは、いつの頃からだったのか。

何を目指して、それを跳ぶのか。

競争、破壊、自分と身内を守り抜けと走り続けた1900年代後半、そしてそのあとは、動力もなく惰性だけで加速して、強固で繊細な要塞を築き上げた。子供たちは、「真実はいつも1つ」ということばを鵜呑みにして育ってきたが、

しかし、それは本当だろうか。

真実はひとつではないし、超えられない壁もいくつもある。

わからないこと、わかりあえはしないことを認め、壁を許容して進むことは、壁を壊して、全てを単色にして進むことよりずっと難しいけれど、

壁を超えるという発想の前に、その、周りを巡ってみるだけで、見えてくるものがあり、わかることがたくさんあるのではないだろうか。

互いに見ている違う世界を尊重し、壁を壁のままで受け入れる勇気が、きっと、今の私達をアップデートする。

色の塗られた方でなく、余白の方に意識を移すことで、心も世界も豊かに呼吸できるようになる。

その時、トカゲが、パッと壁を離れ、飛ぶようにして、草むらに帰っていった。その先には中学校があり、その中では、体育祭が行われている。

暑い日曜日。子供たちの歓声が吸い込まれる青空。

私はマーベリックとまた、ただ、壁沿いに歩く。


		
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