豪雨は覚悟していたけれど、今年もやはり、想定を超えた量の雨が降り、被害が出ている。
厳密に言えば、想定を超えるのが、ある意味想定内になってきたのかもしれない。
100年に一度が、数10年に一度となり、そしてそれは、今、毎年襲ってきて、そのつど、未知の被害を目の当たりにするのだ。
わがことを言えば、家が浸水域から外れているため、まべがお散歩に行けず、ふてくされている以外は、まべまべ家は安全に過ごせているけれど、とても身近に、災害が起きていて、その中に知った顔もあるのではないかと案じて、一向に、落ち着かない。ニュースに映る映像すべてに、体温が通いすぎている。
さらに、日曜の夜から絶え間なく続くひどい雨音を聞きながら、ニュースを凝視しているうちに、私は自分の心の奥底で蠢く何かがあることに気づいた。この何かは、不安とも恐怖ともやるせなさとも名付けられようが、そのざわめきの起こる理由は、私がそこに知った顔を探しているせい、だけではなくて、今見ていることのすべてが、今や”わたしごと”であるせいなんだ。
そんな最も切実なる事実に、もはや目を背けられなくなってしまった。
転じて今、うちの周辺に頭を巡らせば、あの田んぼは、今、どうなっているだろう…
そしてあの川は…
だいぶ前のお散歩で撮った写真だけど、欄干に、織姫と彦星のモチーフがはめこまれた橋がある。
彦星のモチーフの、道路を隔てた向こう側に
織姫がいる。
空の上は、今日もきっと晴れていることだろう。
その空の上、天の川で2人は会い、地上をのぞいているだろうか。
2人の一年ぶりの逢瀬に、こんな悲しい地球の姿を見せなくてはならないのかと思うと、やるせない気持ちになる。
穏やかな流れは命を育くむ
そこに、この先も、その先も、生きていく。
このままでは、地球の気温は上がる一方だという。しかも、一度上がった気温は、下げることはできなくて、それ以上、上がらないようにするしかないのだという。
集中豪雨、洪水、感染症、多くの生物の絶滅により多様性が失われ、それはまた加速していく。
そこにはラインがあって、そのラインを超えてしまうと、進んでいるベクトルは、もはや止められなくなるんだという。
そのリミットまで、あとどれくらいなのだろう。
おそらく、そんなに遠くじゃない。
行動するのは、今なのだろう。
でも、何をしたら…
これまで生きてきて、いやというほど、
いやというほど、変えることの難しさは体験してきたけれど、
難しいの難しくないの、そんな次元を遥かに越えて、
無口に、焦りにも似た衝動を覚えている。
外では地球が、泣き叫んでいるようだ。
きっと地球は痛いのだ。
熱が出て、傷も負い、痛くて痛くて仕方がないのだ。
みんな痛いのはいやだ。苦しいのもいやだ。
それは地球も同じだろう。
“ごめんなさい”
ふっと切れた糸の先に、ごめんなさい、という言葉が口をついてきた。言葉はそこで止まり、宙に浮いた。だが、それでよかった。なんだかすごく長い間、その謙虚さを、忘れてしまっていたんだということに、気がついた。
人間は、自然を前に決して奪う側ではなく、希う側にある。
その本来の位置に立ち返り、地球の懐で、地球のものは地球に還し、もう一度、君の一員として、他のすべての生き物とともに、生かさせてもらえないだろうか。
そんな願いはうねりのように、広がって、優しい雨のように降り注ぐ…
勝ちとか負けとか、支配とか被支配とか、優れているとか劣っているとか、そんなものとは端から無縁の
命育む雨、地球育む雨
やさしいやさしい雨の降る、地球に。
七夕の夜に、希う。
人も動物もみんな、無事でありますように。
心細い時を過ごしているみんなの心に温かい食べ物と温かい寝床、そして私たちみんなの温かく優しい気持ちが降り注ぎますように。
命を奪う雨はいらない。